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zoom RSS 八重の桜 (30)

<<   作成日時 : 2013/07/28 23:47   >>

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まだ会津編は終わっていなかったんですね。
開城から半年。
八重ちゃんたちは、米沢へ尚之助様の弟子の縁を頼って移り住んでおりました。
食い扶持を稼ぐためにみねちゃんと反物を行商する毎日。
屋敷の一角に住まわせてもらっている上に色々と気を遣ってもらって暮らしてはいるものの、やっぱり武士の家のプライドがあるのか、変に気を遣われてると傷つくようです。
桶で反物に染めているうらさんの手がイライラと…
武士も内職が当たり前のこの時代、染め物をするのが嫌なわけでは無いと思います。
一方でまだ半年しか経っていないせいか、色々と戦後すぐの生々しい面もあります。
八重ちゃんはPTSDのせいか夜中にうなされています。
会津武士の未亡人千代さんは残った息子を育てるために米沢商人の妾になっています。
千代さんに鉄砲を教えろと迫られても断る八重さんも、会津を馬鹿にされて激高します。
みねちゃんもまだ子供ながら黙っていられませんでした。
つい半年まで戦士だった八重ちゃん、商人を殺そうとしてしまいます。
まだ角場で鉄砲を撃ってた頃の八重ちゃんはもういなくなっていて、戦争で変わってしまった八重ちゃんしかそこにいないように思います。
これも戦争の後遺症なのだなぁと思いました。

会津藩は、萱野権兵衛が戦争の首謀者として切腹して果てたため救われました。
序列一位の西郷頼母は函館に逃走。二位、三位の田中土佐と神保内蔵助が戦死で、四位の萱野権兵衛が詰め腹を切ったのです。
公式の処罰は斬首でしたが、家老と言うことも有り切腹になったそうです。
これにより容保父子は命を取られずに済んだのです。
こういうケースは、負けた藩ではよくあったのです。
さらに半年後、すでに領地を召し上げられていた会津藩は生まれたばかりの容保の妾腹の子容大を藩祖として、青森県下北半島のつけねにわずか三万石で再興が許されました。
これが斗南藩です。
実際には夏も涼しくコメも育たず、実質収入は三万石どころか一万石もないと言われています。
事実上の処罰でしょうね、これも。
しかし、そこは山川大蔵は「これは戦争である」としてあきらめません。
この前向きは八重の前向きにも通じていていいですね。
結局、1万7千人ほどが会津から、船や徒歩で斗南に移住していったそうです。

山川大蔵は斗南藩を起こすにあたり大参事に就任します。
一方、大蔵を大参事に就任する道を作って、梶原平馬はすべての職が退きました。
史実の方では平馬さんは斗南にいってすぐそこを去り、北海道へ移住し行方が分からなくなります。
昭和に入ってからようやく北海道で亡くなったことが判明しますが、それまでどこで亡くなったのかわかりませんでした。
平馬さんがすべての職を辞して何も残さず、会津の復興にも手を貸さず死んでいったのか、謎のままです。
このドラマでは戦争を主導したにも関わらず席次のために罪にも問われなかった自責の念からだった、ということなのですね。

八重ちゃんを斗南に移住を誘う山川大蔵。
しかし、会津の人たちと一緒に行くと前向きになることができないと断り、米沢に残ります。
たぶん、まだPTSDに苦しんでるのかもしれません。
苦しみや恨みばかりでは前に進めないと考える八重ちゃんは戦後を生きることとを理解し始めているのかもしれません。

さて、次回はようやく京のあんつぁまから手紙が届きます。

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